日誌ーずぼらな俺でもやれんのか
最近、『あひるの空』を読んでて、「あーやっぱりバスケやりたいなぁ」と思い立って、バスケサークルを見つけることも叶わないまま、今のままじゃ恥ずかしくてサークルなんて参加できると一人減量兼トレーニングに励んでいるのです。
一人で続けているのもさすがにモチベがもたないかもなぁなんて思うので、このブログにひっそりと書き綴れればいいなあぁと思ってます。(まあ誰も見てないんだけどね。)
さてさて、トレーニングを始めたのは昨日からなので
日誌的な感じでつけていくつもりです。
2019/6/23
ドリブルラン3キロ
シャトルラン25m 10×10
2019/6/24
シャトルラン25m 10×5
シュート練 300本
スクワット 30
78.5kg 22.7% 57.3kg
こんな感じです。さー頑張るぞ…!
日記を書くことってとても素敵ね。
最近日記が好きで、1日にあったこととかを書いたりしてる。
時系列もバラバラで、罫線に向かってただただ出来事を感情を綴っていく。
そしたらちょっと心が落ち着くようになった。家が汚いことに気がついた。
自分が今日何をしたのかに気がつくようになった。
僕はいつもこんなにも、次のことに必死で生きていたのかなぁ。
そんなことを思いながら、今日のことに想いを馳せる。
ここの記事も久しぶりに読んだら、一ヶ月前の自分は、とても辛い気持ちだったんだなぁと思った。今はちょっとだけマシだから
今日からもちょっとずつ、出来事について綴っていこう。
完成されたものだけを尊びますか?このブログは未完です。
ここに書かれた文章はだいたい未完かあんまり納得してないけど投稿しているもの。
納得してから改めて投稿したりもするかもしれない。
それくらい文字に一度起こしてみるってことが大切なんじゃないかなって考えている。
今までの僕だと、何か言いたいことがあっても
「別の側面からの検証がまだ終わってない」とか
「この言い回しで果たして人に意味を伝えることができるだろうか」
って検証プロセスを経て、世の中に文章が投下される。
けど、だいたい途中で飽きちゃう、というかまあいいやもうなんかさめんどくさいねって思っちゃう。だからだいたい心の中にそっとしまってアーカイブだけが溜まっていく。
別にね、それでもいいけど、私の考えは、ずっと変わり続けるからその時の自分お勘定をもっと大切にしてもいいんじゃないかなって思う。
間違っていれば謝罪の声を大にして送らなければいけないと思うけど。
だいたい謝罪の声よりも、肯定の声の方が拡散されやすいんだよね。感動しやすいから。
だって謝罪は刺激的じゃないもの。
そんな過激なことを僕は言っているつもりないしまあこの話はいいってことにしとこう。
僕は今も昔も無名の人で、多分99.9%の人は誰かにとって無名の人だから、無名の人の声にこれからも耳を傾けていきたいなって思う。
あとね。
座右の銘があって
”私にとっての当たり前があなたにとっての当たり前であるとは限らないし、あなたにとっての当たり前が私にとっての当たり前であるとは限らない。”
ここでの当たり前って言葉は何に置き換えても使えるから、この公文はすごく便利だなって。
今日はこの辺にしとくね。
おやすみなさい。良い夜を。
私は過去の私を救いたいだけ
「私は過去の私を救いたいだけ」
昔から、自分の行動規範として厳然としてあるひとつの言葉。
昔の自分が、天然パーマを「鳥の巣〜〜」とか超いじられてた時に、おはスタの山ちゃんが輝いていたことがどれだけ自分にとって救いだったか。
存在しているだけで、天然パーマは辱められる対象とか地獄じゃん?
大泉洋さんとか、小栗旬さんとか、岡田将生さんとか英雄だったもの。天然パーマだけど「鳥の巣」って言われない人たちは憧れだった。今思うと、たったそれだけの理由で人を憧れるなんて。
昔の自分が、面長であったことを「茄子〜」っていじっていた人たちもきっといい大人になっているんだろうね。普段は全然気にしないけど、時々思い出すことがある。きっと彼らは僕がどんなに傷ついたのか知らないけれど。
他の人がなんて言ったとしても、それは僕にとっていじめでしかなかったし。悲しすぎて悲しみを人に見せられなくて一人で泣いた日もあった。
だから僕は、誰かの目にふれる場所にいたいよ。過去の自分の憧れであるために。
もしかしたら昔の自分に似た境遇の人もいじめられなくて済んだかもしれないもんね。
カネコアヤノさん可愛すぎないですか?大丈夫ですか?
かわいいぃぃぃぃ
はい、すいません荒ぶりました。
DRIP TOKYO #2 カネコアヤノ
え、待って待って待って、尊い。
こんな素敵なのに、音楽もできて歌詞もかけるって、えっ、ちょっと、えっ。
ホームページもめっちゃ可愛いよ〜〜〜〜。
それがさ、カネコアヤノさんの写真周りのお仕事を、木村和平さんがやられているんですよ。
好き。
とりあえずこいつを見てくれ。
いやぁ、好きです。(語彙力)
誰かのために捧げる文章を
文章を書くとき、「誰かのために捧げる文章を」そんなふうに考えていつも書くことにしている。
ちなみにこのブログは、将来の自分のために。
僕は昔から文章が書ける人に憧れていて、自分の世界を表現できる人に憧れていて。
その世界で誰かを救っているそんな姿に心底憧れていた。
僕はきっと昔から、完璧主義だ。完璧主義って言っても全部完璧なわけじゃない。
不完全な完璧、こだわりだけ強くて、妥協ができなくて、勝手に悲壮感に浸ってしまうような、そんなだらしない人。
自分ならもっとできるはずと、自分を魅了した人の文章を見ながら、何が違うのかを考えたりした。
けど、自分が書き写したそれは案外自分を魅了しなかったりする。
なんでだろうねぇって思うけど、きっとそれは自分の表現じゃないからなんだなって。
自分に馴染んでない。表現も、表情も、心も、言葉も。
僕は探索によく出かけた、昔から。
図書館という言葉の森へ。文字が鳴くよ、小鳥みたいに。
ふと目をやった先に、まるで光が差し込んだみたいに出会ったりする。
運命の出会いなんて、出会いを重ねた人にしか訪れない。
きっと無数の出会いの中から、自分が運営と感じる瞬間に立ち会うだけ。
だから、たくさん言葉に触れるよ。たくさんの表現を目にするの。
「全部自分の中にある、あなたはそれを吐き出すだけでいいの」
昔、誰かが言った言葉が僕の中を駆け巡る。
どこか本当で、どこか嘘だ。
きっと自分の中にあるものを吐き出すだけってのは本当だと思う。
でもきっと、自分の中にあるってのは嘘だ。
自分って誰か僕はわからない。
自分っていつの自分?
自分って誰といるときの自分?
自分ってねぇ。
感覚なんていつも変わるわ。気分も、言葉も、信念も。
一貫した思いがある人なんてきっといないよ。
めぐりめぐってその思いがひょっこり顔を出しているだけなんじゃない?
けどみんなそうやって確信を積み重ねていくの。
確信して生きていくの。
勘違いして、勘違いを積み重ねたその先に
まるで自分があるような気がするよ。
【はじめに】匿名で記事を書くということ
初めましてこんにちは。
いのりと言う名前でブログを書いていきたいと思います。
今回このブログを始めるにあたって、書いておきたいことがあったので書き留めておきます。
僕は普段twitterを主なコミュニケーションツールとして使っているのですが、最近になってtwitterにはそれらしいことを言う人ってのがとても増えたなぁって。
- フォロワーが増やすための方法
- 他者と差をつけるためにこうしろ
- これだけは理解しておいたほうがいいこと
とかとか
おっそうだな。まあ楽しいなら頑張ってやってねって感じに思うけれど、全然居心地が良くないんですよね。ただ今日はこれがうまかったとか、すれ違ったお姉さんがめっちゃ可愛かったとか、今日はサッカー楽しかったとかそういうのが見たいんですよ。
実名顔写真付きを礼賛し、それ以外には責任も取り扱う意義もないと宣う人たち。
最近はフォローすることよりも、ブロックすることのほうが増えてきたTwitter。
つまんないなぁって思って。そんな感じでもはや一周回ってブログに戻ってくるかって感じで帰ってきたわけです。
noteとかでもよかったのだけど、なんとなく意義あることを求められるような気がして気が引けちゃって(笑)
まあ、はてなブログが楽でいいやってね。
このインターネットにあって匿名であることの意義を考えていきたいなって。というか世界には72億人くらいの人がいて、有名な人なんてのはほんの一部なのに、有名なものにしか目を向けられない哀れない人にならないために、綴っていけたらなと思いますのでどうぞよろしくお願いします。
最後に好きな言葉をひとつ引用してひとつ目の結びとしたいと思います。
『有名な人々の記憶より、無名な人々の記憶に敬意を払うことのほうが難しい。歴史の構築は無名の人々に捧げられる。』W.ベンヤミン