誰かのために捧げる文章を
文章を書くとき、「誰かのために捧げる文章を」そんなふうに考えていつも書くことにしている。
ちなみにこのブログは、将来の自分のために。
僕は昔から文章が書ける人に憧れていて、自分の世界を表現できる人に憧れていて。
その世界で誰かを救っているそんな姿に心底憧れていた。
僕はきっと昔から、完璧主義だ。完璧主義って言っても全部完璧なわけじゃない。
不完全な完璧、こだわりだけ強くて、妥協ができなくて、勝手に悲壮感に浸ってしまうような、そんなだらしない人。
自分ならもっとできるはずと、自分を魅了した人の文章を見ながら、何が違うのかを考えたりした。
けど、自分が書き写したそれは案外自分を魅了しなかったりする。
なんでだろうねぇって思うけど、きっとそれは自分の表現じゃないからなんだなって。
自分に馴染んでない。表現も、表情も、心も、言葉も。
僕は探索によく出かけた、昔から。
図書館という言葉の森へ。文字が鳴くよ、小鳥みたいに。
ふと目をやった先に、まるで光が差し込んだみたいに出会ったりする。
運命の出会いなんて、出会いを重ねた人にしか訪れない。
きっと無数の出会いの中から、自分が運営と感じる瞬間に立ち会うだけ。
だから、たくさん言葉に触れるよ。たくさんの表現を目にするの。
「全部自分の中にある、あなたはそれを吐き出すだけでいいの」
昔、誰かが言った言葉が僕の中を駆け巡る。
どこか本当で、どこか嘘だ。
きっと自分の中にあるものを吐き出すだけってのは本当だと思う。
でもきっと、自分の中にあるってのは嘘だ。
自分って誰か僕はわからない。
自分っていつの自分?
自分って誰といるときの自分?
自分ってねぇ。
感覚なんていつも変わるわ。気分も、言葉も、信念も。
一貫した思いがある人なんてきっといないよ。
めぐりめぐってその思いがひょっこり顔を出しているだけなんじゃない?
けどみんなそうやって確信を積み重ねていくの。
確信して生きていくの。
勘違いして、勘違いを積み重ねたその先に
まるで自分があるような気がするよ。